公開日 2017年02月14日
- 指定年月日 昭和41年2月15日(1号墳から8号墳)
- 所在地 大田原市湯津上
- 管理者 個人、大田原市
侍塚古墳群は下侍塚古墳(国指定史跡)のすぐ北側に展開する8基で構成された古墳群です。
かつては10基程度存在していたようですが、戦後の開墾等によって消滅したといわれます。前方後円墳である1号墳、方墳である8号墳を除く6基は円墳とみられています。
5号墳、8号墳は部分的な発掘調査によって、ある程度の状況が把握されていますが、大半の古墳は不明な点が多くあります。指定はそれぞれの古墳に対して個別にされています。
・1号墳(前方後円墳) 全長:35から50m・高さ2.9m
侍塚古墳群中で唯一の前方後円墳です。
この古墳は、2段築成の前方後円墳とする見方と、基壇状に見える自然地形に築かれた段築のない古墳とする見方の2通りが考えられています。
前者の場合、全長約50mの基壇の上に約35mの2段目が造られたと考えられ、後者の場合では、全長約35から40m、後円部径18m・高さ2.9m、前方部長17m・高さ2.1mほどの大きさであると復元できます。
墳丘上には、葺石状の川原石が多数認められ、前方部西側には円筒埴輪の破片が散在していたようです。
・2号墳(円墳) 全長:17.5m・高さ3m
古墳群中で最も北に位置している円墳です。
昭和50年代のほ場整備の際に、墳丘裾部が高さ1.5mほど削り取られたため周辺の水田と5m近くの比高差があります。
古墳群中では最も遺存状態が良いといわれていますが、周溝はほとんど残っていないようです。
墳丘上には川原石が散在します。
墳頂には地元住民が管理する「山の神」の小祠が建てられ、南斜面は参道になっています。
平成13年(2001)の測量調査では、埋葬施設や遺物は確認されなかったことから、築造年代の特定は困難とされています。
・3号墳(円墳) 全長:径約18m・高さ約3m
4号墳と小径をはさんだ向かい側にある古墳です。
住宅建設による削平や、小河川による浸食を受けています。
これらの掘削を受けているものの、羨道(せんどう)や石室の痕跡が認められていないことから、埋葬施設は横穴式石室ではないと推測されます。
平成12年(2000)の測量調査でも、周溝の状況や葺石の有無は確認できず、採集遺物もないことから、現状では築造年代の特定は困難です。
・4号墳(円墳) 全長:約16m・高さ約2m
墳丘の南北を道で挟まれている、南北15m×東西20mのきわめて狭い範囲に所在している円墳です。
道路や水田・水路によって、東側も墳頂部の小祠への参道として手が加えられているようです。
葺石は確認されていません。
平成12年(2000)の測量調査でも、築造年代は特定されませんでした。
墳丘南側の掘削部分を見ても痕跡はないことから、横穴式石室をもつ可能性は低いと判断されます。
・5号墳(円墳) 全長:径27m(二段築成)
昭和29年(1954)に発掘調査が行われ、墳丘裾部に幅5m内外の平坦部があり、斜面には川原石による葺石が施されているのが確認されています。
墳頂部及び墳丘裾部の平坦部からは埴輪が出土しており、特に裾部の平坦部では埴輪が70cmから100cmの間隔で一重にめぐらされているのが判明しました。
埴輪には、円筒埴輪のほか、鷹や馬の形をした形象埴輪もあり、その他ある程度復元が可能な須恵器(すえき)や土師器(はじき)も出土しています。
埋葬施設については、墳頂部から掘り下げてその存在を明らかにしようと試みましたが、5m以上掘り下げても発見することができませんでした。
調査から、古墳時代後期(6世紀)に築造された古墳と見られています。
・6号墳(円墳) 全長:径12m・高さ1.5m
古墳群の中でも東側にあり、那珂川から西へ20mほどのところに位置しています。
昭和50年代のほ場整備事業により、高さ1.3から2mにわたって墳丘裾部が方形に切り取られ、一見すると上円下方墳のような様相を呈していますが、二段築成の円墳と考えられます。
平成13年度の測量調査では、葺石の有無や埋葬施設については確認されておらず、採集遺物も確認されなかったため、築造時期は不明です。
・7号墳(円墳) 全長:径約15m・高さ1.95m
古墳群の中でも最も東に立地しており、すぐ東に那珂川を臨む位置にあります。
墳丘の東半部は段丘崖により浸食を受けており、削られている状況です。
地元の方の話によると、山芋が掘れないほど「びっちり石が詰まっている」とのことであり、葺石で覆われていると推測できます。
墳丘裾部には、現在でも30cmほどの川原石が散在しています。
平成10年(1998)の測量調査でも、年代は決定できなかったようですが、周辺の状況から古墳時代後期(6世紀初から7世紀半ば)の古墳であると考えられています。
・8号墳(方墳) 全長:一辺約17m
下侍塚古墳(国指定史跡)の東北東約50mに立地しています。
侍塚古墳群のなかで唯一の方墳です。
墳丘の現況は、東西約13m、墳丘北の水田面からの比高2.3mほどで、昭和52年(1977)の発掘調査により墳形や全長が確認され、墳丘の周りに周溝が巡らされていることがわかりました。
出土遺物は、土師器の器台片のみですが、この特徴から下侍塚古墳と同時期の4世紀の古墳であると考えられています。
(参考文献)
『栃木県史』資料編・考古1 1976年
湯津上村埋蔵文化財調査報告第2集『下侍塚周濠発掘調査概報』1976年
栃木県埋蔵文化財調査報告第21集『栃木県埋蔵文化財保護行政年報』1978年
栃木県教育委員会『茶臼塚古墳群・小松原遺跡』1979年
斎藤忠・大和久震平『那須国造碑・侍塚古墳の研究』吉川弘文館 1986年
田熊信之・田熊清彦『那須国造碑』中国・日本史学文学研究会 1987年
『栃木県立なす風土記の丘資料館年報』6 1998年
『栃木県立なす風土記の丘資料館年報』7 1999年
『栃木県立なす風土記の丘資料館年報』8 2000年
『栃木県立なす風土記の丘資料館年報』9 2001年
東野治之「那須国造碑」『日本古代金石文の研究』岩波書店 2004年
眞保昌弘『侍塚古墳と那須国造碑』同成社 2008年
大田原市教育委員会『大田原の遺跡』 2012年
大田原市教育委員会『大田原市の文化財』 2015年