公開日 2017年02月13日
- 指定年月日 昭和63年6月24日
- 所在地 大田原市余瀬(よぜ)522
- 管理者 大田原市教育委員会
鹿子畑家の墓地は、東西約6.2メートル、南北約9メートルで、周囲は水田と畑です。墓碑の形態は、単制の無縫(むほう)塔・箱型風・板碑(いたび)型塔・柱状塔・笠付型・五輪塔(ごりんとう)・自然石等、多様です。鹿子畑翠桃の墓碑は、単制の無縫塔です。なお、同家の墓地内には、翠桃の妹である津田光明寺室の墓碑や、父鹿子畑左内(さない)の墓碑もあります。
鹿子畑翠桃(寛文2年から享保13年・1662から1728)は、鹿子畑左内の二男で、名を豊明といいます。翠桃は俳号です。左内の長男高勝は、母の実家である浄法寺(じょうぼうじ)家を継ぎ、黒羽藩城代家老(じょうだいがろう)となり、図書(ずしょ)と称しました。俳号は、桃雪(とうせつ)・秋鴉(しゅうあ)です。
父左内は、故あって黒羽を退き、家族と共に江戸に住むこと12年、その間に高勝・豊明兄弟は、松尾芭蕉(1644から94)のもとで俳諧を学びました。後に左内は帰藩を許され、兄弟も黒羽に戻り、はばかって岡姓に改めました。
元禄2年(1689)4月、松尾芭蕉は、「おくのほそ道」行脚の途次、黒羽を訪れ、翠桃宅に5泊、浄法寺邸に8泊し、合せて13泊14日の長期滞在となりました。兄弟は、師を厚くもてなし、郊外の寺社・名所旧跡を案内しています。そのほか地元俳人たちとの歌仙興行もあり、芭蕉は、みちのくの長途の旅を目前にして、快い日夜を黒羽に過ごしたのです。
翠桃の墓碑
鹿子畑家の墓地
(参考文献)
- 『黒羽町誌』黒羽町 1982年(余瀬翠桃邸跡図967ページ、事跡1116ページ)
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