大関公之碑(おおぜきこうのひ) 市指定有形文化財(歴史資料)

2017年5月2日
  • 指定年月日 平成13年6月21日
  • 所在地 大田原市前田1073 鎮国神社境内
  • 所有者 鎮国神社
  • 員数 1基
  • 製作年代 明治時代
  • 大きさ 高さ115.0センチメートル 幅51.0センチメートル 厚さ11.0センチメートル

 この石碑は、大関肥後守増裕(ひごのかみますひろ)を顕彰するための碑です。

 石碑の表面は、明治7年(1874)3月、勝海舟撰文(せんぶん)・書丹(しょたん)による増裕の一代略記となっており、裏面には、まず増裕の妻待子(まちこ)の追悼歌2首が和歌の師、横山由清(よしきよ)によって記され、次いで、三田地山(ちざん)撰文・関思敬(しけい)書により、建碑の由来が記されています。かつて増裕と共に幕府の軍政改革に尽力した勝海舟のもとを待子が訪れ、「大関公之碑」撰文を泣きながら要請した、ということです。鐫刻(せんこく)は、東京在住の名工廣羣鶴(こうぐんかく)です。

 石碑表面に陰刻されている内容はおおよそ次のとおりです。

増裕公は遠州横須賀に西尾忠宝(ただとみ)の末男として生まれ、文久元年(1861)、大関能登守増式(ますつね)の養嗣子(ようしし)となり、家督を受け、従五位下(じゅごいのげ)肥後守に叙任した。同2年、幕府の要職に抜擢(ばってき)され、講武所奉行・海陸両軍兵制所主宰となった。翌年病により辞職し、黒羽入りして、藩政改革に尽力した。慶応元年(1865)には海軍奉行に就任し、開成所事務を司り、翌年には幕政に参与することとなった。慶応3年(1867)12月9日死去した。享年31歳。翌年、大関増勤(ますとし)は戊辰戦争で戦功あり、朝廷より1万5千石を下賜(かし)された。

 そして、最後に増裕を讃える海舟の漢詩が付されています。

 

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