福原氏墓所(ふくわらしぼしょ) 市指定史跡

2017年5月2日
  • 指定年月日 昭和47年3月1日
  • 所在地 大田原市佐久山2243 実相院境内
  • 管理者 実相院

 福原氏墓所は、実相院本堂の裏手に、福原氏の始祖四郎久隆(ひさたか)より資広(すけひろ)・資時(すけとき)・資義(すけよし)・資継(すけつぐ)・資陳(すけのぶ)・資常(すけつね)・資益(すけます)・資規(すけのり)・資英(すけひで)・資澄(すけすみ)・資衡(すけひら)・資郡(すけくに)・資孝(すけたか)・資広(すけひろ)・資保(すけやす)の合祀碑、及び資盛(すけもり)の墓碑を中央に配し、この前面に資清(すけきよ)・資重(すけしげ)・資倍(すけます)・資祀(すけとし)・資宜(すけよし)・資明(すけあきら)・資克(すけよし)・資敬(すけたか)・資深(すけとお)・資順(すけゆき)・資功(すけのり)・資生(すけおき)(最後の城主)の墓碑があります。

 久隆より資郡までは福原永興寺(ようこうじ)より改葬されたもので、資宜・資明・資克・資順は東京浅草曹源寺(そうげんじ)に葬られましたが、改葬されたものと思われます。福原氏歴代の墓所として、江戸時代領主層の霊屋(たまや)の様式をそのまま残しています。

 那須一族の福原氏は、那須太郎資隆(すけたか)の四男久隆が福原に分知され、上福原といわれた片府田に館(市指定史跡)を構え、福原氏を称したことに始まるとされます。戦国時代に大田原資清の子、資孝が養子に入り、永禄6年(1563)佐久山氏を滅ぼしたとされます。天正(てんしょう)18年(1590)資孝の子、資保は豊臣秀吉の命により片府田から佐久山四ツ谷(御古屋敷)に移り、以後佐久山が福原氏の本拠地となっていきます。さらに元禄15年(1702)、福原資倍がかつての佐久山城(市指定史跡)に補修を加えここへ陣屋を移し、交代寄合(こうたいよりあい)として佐久山3,500石の支配を行い、明治2年(1869)、資生に至り版籍を奉還しました。

 平成23年(2011)3月の東日本大震災で墓碑が倒壊しましたが、平成24年(2012)に修復されました。

 福原氏墓所.jpg

(参考文献・福原氏関係)

  • 『那須の戦国時代』下野新聞社刊 1989年(45,46,190ページ)
  • 『大田原市那須与一伝承館企画展図録 交代寄合那須氏・福原氏と大田原』大田原市那須与一伝承館 2008年
  • 『那須郡誌』蓮実長著 下野新聞社刊 1970年(172から176ページ) 

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