大雄寺(だいおうじ) 国指定重要文化財(建造物)

2017年11月2日
  • 指定年月日 平成29年7月31日
  • 所在地 大田原市黒羽田町450 大雄寺(だいおうじ) 
  • 所有者 大雄寺
  • 員数 9棟
  • 製作年代 江戸時代

 大雄寺は、応永(おうえい)11年(1404)に開山されたのが始まりといわれ、領主であった大関氏の菩提寺(ぼだいじ)として庇護され、天正(てんしょう)4年(1576)に大関高増(おおぜきたかます) が余瀬(よぜ)の白旗城(しらはたじょう)から黒羽城へ居城を移すに際し、大雄寺も現在地に移ったとされます。
 東を正面とする大雄寺は、総門の両脇から廻廊(かいろう)が延び、奥に立つ本堂を中心に、北に庫裏(くり)、南に禅堂(ぜんどう)が対峙しながら建つのを結んでおり、廻廊内には鐘楼(しょうろう)、廻廊外には経蔵(きょうぞう)がそれぞれ配置され、伽藍(がらん)が形成されています。
 大雄寺の各建造物については、平成19・20年に詳細調査が行われ、平成28年にその成果が報告書としてまとめられました。報告書によれば、中心となる本堂の建設は、17世紀に遡ると推定され、部分的に江戸時代の段階的な改変を受けているものの、大規模な曹洞宗(そうとうしゅう)本堂の形式をよく残しているとされています。個々の建造物については、建設年代についてそれぞれ差があるものの、江戸時代を通じての寺勢と伽藍整備の態様を物語り、全体として江戸時代後期から末期の形態でまとまっているとされ、位牌(いはい)堂、開山堂、庫裏の一部、経蔵を除いてすべて茅葺(かやぶき)であり、それら茅葺建造物群からなる大雄寺の主要部は、装飾性を高めた意匠や造形が限定され、本堂から廻廊にいたるまで全体が簡明に統一されており、近世曹洞宗寺院の典型の一つを示しているとされています。

 伽藍全景   境内配置図

 

〔1〕 大雄寺本堂 1棟
 桁行(けたゆき)25.5メートル、梁間16.3メートル、一重、寄棟造、茅葺(一部銅板仮葺)、北面玄関、西面開山堂附属、銅板葺 

 東を正面とし、正面側は低い基壇状に石垣を築いて建っています。北側面の東寄りに玄関を接続させて庫裏と連絡し、南側面前端には、禅堂へ続く廻廊が接続しています。背面の西面には位牌堂を介して開山堂があります。
 平面は、典型的な8間取の曹洞宗本堂形式を有し、前面幅1間を桁行全長にわたる土間とし、これに面して板の間の大縁、両側面に幅1間の入側縁(いりがわえん)、背面に幅5尺の縁を巡らしています。
 基本構造や平面は建立当初の姿をよく残し、後世の改造は内陣(ないじん)須弥壇(しゅみだん)の新設と後方への拡張、大間(だいま)・脇間境の柱の撤去など、儀式に直結した部分に限られています。建設年代は、後世に編纂された黒羽藩主大関氏系図や住職履歴などの記録では、慶長から元和(げんな)期となりますが、部材や痕跡からわかる当初形式の建設的な特徴から17世紀後半と推定することができます。

 本堂

 

〔2〕 庫裏 1棟
 桁行26.9メートル、梁間10.5メートル、一重、一部二階、入母屋造及び寄棟造、北面下屋附属、茅葺及び銅板葺 

 本堂の北東に、東西棟で南面して建ち、北面の東側と西側に下屋を設けています。
 内部は、桁行の西約5分の4を居室部、その上手を書院部、東約5分の1は土間としています。居室部、書院部とも棟通りで表裏に仕切って2列に部屋を配し、居室部表側は廻廊から一連に続く幅1間の土庇(つちびさし)、裏側は、半間幅の廊下としています。
 庫裏の茅葺屋根の軒高は本堂と同じで、南面の一間通りが玄関前土間や廻廊と連続しており、この建設によって廻廊で囲まれた伽藍中心部の構成や形式が整っていたものと考えられます。
 建設年代は、様式、技法等から類推すると、同寺所蔵の寛保(かんぽう)2年(1742)の年紀のある「過去帳」にみられる31世大庵白牛(だいあんはくぎゅう)が在住した嘉永(かえい)元年から4年(1848から1851)と考えられます。

 庫裏

 

〔3〕 禅堂 1棟
 桁行5間、一重、寄棟造、茅葺(一部銅板仮葺)  

 本堂の南東、庫裏に相対し北面して建っています。梁間(はりま)前端間を廻廊と一連の開放の土間とし、その奥は間仕切りのない一室で、東西両端に床を張り畳敷の単(たん)を設け、中央に須弥壇を据え、ここに本尊である釈迦如来(しゃかにょらい)像(栃木県指定有形文化財)を安置しています。須弥壇には「田町 滝田幸右衛門」の刻銘があり、享保(きょうほう)17年(1732)に経蔵を寄進した「田町 滝田夢心」と関係のある者とみられます。
 正規の禅宗伽藍に則して配置され、小規模ながら本格的な座禅修行の場をつくっています。
 建設年代は明らかではありませんが、当初材である柱材等の様子から、江戸時代中期の伽藍整備に際して、現在の本堂と近い時期に建てられたと考えられますが、後世の改造、部材の取り替えも各所で見られます。

 禅堂

 

〔4〕 鐘楼 1棟
 桁行1間、梁間1間、入母屋造、茅葺  

 廻廊の内側、北東隅に独立して建っています。平面は桁行・梁間とも2.4メートルの正方形を呈しています。棟(むね)は鬼板状の装飾のある銅板で覆われ、入母屋の妻の破風(はふ)板は格子で、唐草紋の懸魚(けぎょ)が付けられています。天井は格間(ごうま)5×5の格天井(ごうてんじょう)で、その中心から銅鐘が吊り下げられています。建設年代は、梵鐘(ぼんしょう)が万治(まんじ)3年(1660)に鋳造されていることから、その時期には存在していたものと考えられますが、現在の鐘楼の様式等から、江戸時代中期以降に建て替えられたものとみられます。

 鐘楼

 

〔5〕 経蔵 1棟
 土蔵造、正面5.3メートル、側面6.3メートル、一重、宝形造、向拝1間、銅板葺、八角輪蔵付、附・棟札 2枚 享保17年、寛政9年  

 廻廊で囲まれた郭の外、総門の南東に位置し、参道に向かって北面して建っています。内部は床を張らない一室で、中央やや前寄りに輪蔵(りんぞう)、奥に仏壇を設けています。
 鏡天井には黒羽藩家老を務めた鈴木武助正長(すずきぶすけまさなが)による「疾風七年七十一翁正長」の墨書のある龍の墨絵が描かれています。
 また、経蔵からは2点の棟札(むなふだ)が確認されており、享保17年(1732)銘の棟札は、経蔵建立時のもので、18世湛然穿海(たんぜんせんかい)の代に黒羽田町在住の滝田佐次兵衛(法名夢心)が願主となって新たに建造され、将軍への進講を行った学僧で13世廓門貫徹(かくもんかんてつ)が徳川吉宗から寄附を受けた一切経(いっさいきょう)を収めたことがわかります。このことは、同寺所蔵の寛保2年(1742)の年紀のある「過去帳」や享保18年(1733)に木曽武元(きそたけもと)が記した『那須拾遺記』の記述とも符合しています。寛政9年(1797)銘の棟札は、25世格外元機(かくがいげんき)の代に経蔵とそこに安置された仏像が改修されるなどした際のもので、前掲の「過去帳」の記述とも符合します。

 経蔵

 

〔6〕 総門 1棟
 桁行1間、梁間1間、切妻造、茅葺 

 本堂の前方に東面して建っています。伽藍東正面のやや南にずれて配置され、両脇から廻廊が延びています。切妻(きりづま)造ですが、両側に勾配の緩い破風を付け箕甲(みのこう)を大きくとっているため、一見、寄棟(よせむね)造のようにも見えます。桟唐戸(さんからと)が取り付けられ、天井は竿縁(さおぶち)となっています。廻廊とともに部材の取り合いが一体的に計画されていることから、庫裏の建設年代と同じ江戸時代末期と考えられます。

 総門

  

〔7〕 廻廊 3棟
 北東廻廊、南東廻廊、南西廻廊からなる
 北東廻廊 折曲り延長23間、梁間1間、両下造及び切妻造、茅葺(一部銅板仮葺)
 南東廻廊 折曲り延長12間、梁間1間、両下造及び切妻造、茅葺
 南西廻廊 折曲り延長13間、梁間1間、両下造、茅葺(一部銅板仮葺) 

 総門、禅堂、庫裏、本堂の各建物を結ぶように廻廊が設けられています。桁行に土台を通し、1間ごとに梁間1間で前後に柱を立て、梁で繋ぎ、上部に叉首(さす)を組んで茅葺とし、桁行2から3間ごとに控柱(ひかえばしら)で補強しています。外部に面した側のみ腰板張とし、内側はすべて開放となっています。現在の伽藍において、柱間の割付や部材の取り合いが一体的に計画されていることから、庫裏の建設年代と同じ江戸時代末期と考えられます。

  廻廊

 

 

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大雄寺

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